私は水槽に入れるものを水草しか想定していないので、ついつい「クリプト水槽にはパールグラミーを植えようかな」とか言ってしまい笑われがちである。しかし、私にはもっとよく使われる「泳がせる」という語の方がより奇妙なものに思えてならない。
魚は泳ぐのであって、人が強制して泳「がせる」ものではない。「クリプト水槽にパールグラミーを泳がせようかな」というのはクリプト水槽にパールグラミーがあらかじめ入っていて、定位して動かないそれを水槽をコンコン叩いたりピンセットで追い回したりして泳「がせる」ように思えてならないのだ。そしてそれは、最終的に消費することを意味するような気がしてならない。
しかし、その変な「泳がせる」を代替する語はパッと浮かばない。
「入れる」系の語…投げ込む、注ぐ、入れる…というのは感覚的には「植える」に近いが、飼育し育てるニュアンスがあまりにも薄く、あたかも次の日には死んでしまいそうである。
かと言って
「クリプト水槽にはパールグラミーを飼おうかな」というと、なんとなく主体が魚のようになってしまって私には腹立たしいし、水槽を芸術として扱うべきところならば、芸術であるべきそれが魚を飼うための道具になってしまうのだ。
そういう面を含めて「植える」というのは素晴らしい語である。
「入れる」というニュアンスが強くあるとともに、その状態の継続可能性や発展性も感じられる。「苗木を植える」ことは「苗木を入れる」こととは違うし、かつ「花壇に花を植える」のは花壇を芸術的に、色合いとして彩るという意味としても違和感がなく、花壇を花を育てるための道具としてしまう違和感もない。これが「花壇にて花を育てる」であったら花壇というよりかは菜園かファームでは?となってしまうのだが。
そもそも、水槽の観賞魚というのは多くの人間にとって「花壇」のようなものではないだろうか?綺麗な魚を入れる、そして楽しみ、寿命にせよ不慮の死にせよ消費する。飼うことは目的を謳ってはいるが、ほとんどの方にとって熱帯魚水槽はコミュニティタンクであり、終生飼育や繁殖は「できたらいいが目的や目標にはしていない」のである。
そういう面を踏まえると、「熱帯魚を水槽に入れる」のに最も適した語は「植える」であるような気がしてならないのだ。
だから私は水槽に魚を植え続けようと思う。
Plant the Fish!