水草オタクの水草がたり.

水草を探して調べるブログです.素人ながら頑張ります.

ビオトープとメダカと水生園芸

ビオトープに関する書籍が話題となり、ビオトープ・ブームが来ようとしている。

著者が人気な方であったこともゆえんのひとつではあろうが、装丁や内容も程よくライトでかつ抑えるところは押さえている、好印象な本であった。新しいことを始めるには「やってみよう」ということがまず第一に重要であるし、昨今の破滅的な湿地破壊の中では、中継点的にでも何かしらの生き物が利用できる場の創生が急務である。

 

しかし懸念すべきこともある。

この「ビオトープ」という語はかなり長い間、商業的なメリットから意味やイメージに関する誤謬が正されぬまま使われてきた語である。

著者自身もそうした一般の「ビオトープ」に関する誤った方向の認識と情熱を環境に悪影響を与えない趣味に昇華できるか、かなり苦労しながら書かれたのではないかと読みながら思った。かつてもビオトープに関する本がいくつも一般向けに出てきたが、それらとは一味違う。一般向けの本としては初めて、本当のビオトープを紹介した本ではなかろうか。

しかし、現状は「ビオトープ」という言葉が人気になっただけという印象がぬぐえない。いまもビオトープと検索すれば、ホテイアオイとメダカの組み合わせがトップヒットするのが現状である。

ビオトープ向け植物として外来水生植物が大量に販売される現状も、何ら変わっていない。きたるビオトープ・ブームに乗っかってそうした業者が利益を伸ばすことは間違いない。そして、そうした園芸業者を批判する動きが激化することもまた、現に起きてしまっている。

現状、こうした水辺の生き物を屋外で飼育栽培する人々は

A. 水生園芸とメダカを育てる

B. 生き物の人為的な生息地をつくる

立場に二極化している。

私は前者を嗜んできたものであるが、思想的にはどちらかというと後者の立場に近いのではないかと思う。ただし私は後者の立場からの前者に対する批判が激化することをよしとは思っていない。それは「ビオトープ」という語が現状では「水生園芸」の今風の呼び方であるかのように扱われてしまっているからであり、誤った呼称と誤解を解決するという逃げ道を塞いだうえでそれを全否定したならば江戸時代から連綿と続いてきた水生園芸文化の破壊と終焉につながり、水生植物を愛する私にとって悲しい結果しかもたらさないからである。

 

ビオトープは「生息地」である

まずビオトープとは何なのかについて述べていきたいところだが、へたげに書くと言葉尻をとらえて攻撃してくるヒトも読者の中にはいることが予想されるために、あまり述べたくないというのが本音である。

ただ面白い視点を追加してみたいと思う。

語源から見るビオトープビバリウム

ビオトープはBiotopeの音読みであり、その語源はBio-tope「生きる+場所」の意であることをとらえればやや理解しやすいかもしれない。面白いことにビバリウムVivariumとビオトープBiotopeは語源を日本語訳すると、殆ど同義である。

ただし、現在のニュアンス的にはVivariumは飼育下における場所、Biotopeは野生下における場所とはっきり区別されている。語義的には、BiotopeはWild habitatとほぼ同義、VivariumはTerrarium±Aquariumである。さてこのようにビオトープは「生息地」「自生地」であって、「飼育地」「栽培地」とは対極的な概念である。

ビオトープをつくる、とは何か

したがってビオトープをつくる」というのは「自然に生息する地の創出」であって、「何かを育てたり放したりする」のとは真逆といっていい概念といえる。

ビオトープに暮らす生き物

だからビオトープにいるべき生物は放流した生物ではなく、勝手にやってきて住み着いたものたちなのである。

 

水生園芸について

次に水生園芸というものについて述べていこう。

水生園芸とはなにか

水生園芸とは文字通り、水中、もしくは水辺で園芸を楽しむことである。英語ではAquatic gardeningであり、西欧ではスイレンの育種が、東洋ではカキツバタやハスの育種が進められた、伝統的な園芸の一ジャンルといえる。水生園芸には「水やりが非常に容易」「土をあまり選ばない」「栽培管理の手数が極めて少ない」「スイレン鉢にきちんと入れて管理すれば(野外に植えなければ)勝手に這い出して雑草化しにくい」などなど陸上園芸に対して様々なメリットがある、素晴らしい文化である。

水生園芸とビオトープのオーバーラップ

ようするに「水生園芸」と「ビオトープ」は何の関係もない、別々の概念である。

但し、水生園芸をやっていると様々な生物が産卵したり繁殖したりする場所(ビオトープ)ができてしまいやすいというのはまあ、事実であることを否定はしない。

某書でも某氏の水生植物栽培場が様々な生物の生息地(ビオトープ)になってしまっていることを取り上げていたし、私の水生植物栽培場でも様々な昆虫などの生物が訪れまた繁殖しており、ビオトープ的な側面を帯びているのもまた事実である。そして、勝手にやってくる水生昆虫にとっての”駅”や”マイルストーン”をつくるために水生園芸で用いる植物を使った小さな生息地(ビオトープ)を作るのであれば、それはたしかにビオトープであることを否定はしない。

但し園芸が目的の植物をより美しく育てることを至上命題とし、そのためには病害虫の防除は欠かせないことは当然のことである。

だから「勝手にやってくるものにとっての生息地」である「ビオトープ」と「水生園芸」は近くはあってもなかなか相いれない。

 

「メダカビオトープ」なるものについて

「メダカビオトープ」という言葉がしばしば聞かれるが、どういう意味合いで使っているのか。Biotope aquariumの文脈で、メダカの生息地(ビオトープ)を「演出」するために植物を使っているのならば納得はいくが、そんなものは水族館ですらめったに見かけない。そしておそらくメダカビオトープこそが、ビオトープと水生園芸と観賞魚飼育をくっつけて滅茶苦茶にしてしまった元凶のように思えてならない。

メダカビオトープは一種のバランスドアクアリウムである

世間でいうメダカビオトープとは「メダカを水生植物の鉢に入れるとボウフラや害虫をメダカが食べてくれるし、水生植物によって日陰ができて真夏でも死ににくく、水も汚れにくい」という、メダカ―水生植物ー外からの水生生物ーという一種のバランスドアクアリウムができるということを、ビオトープと称しているようである。

魚と水草を一緒にやると相乗効果的に良い・・・というのはバランスドアクアリウムの議論であって、19世紀に盛んにおこなわれたという水生植物による水の浄化に期待した、温室内の自然採光によるアクアリウムへの原点回帰といえる。ある意味究極のアクアリウムだし、水生園芸、アクアリウム双方の視点から見て簡便かつ素晴らしい技術であろう。

メダカビオトープビオトープたりえない

ただし、こうした「メダカビオトープ」は屋外アクアリウムであっても、ビオトープではない。水生園芸とメダカのどちらを重視するかは人によりそれぞれだが、それらは「育てている生き物のためのもの」であって「外から勝手に来たものを締め出すためのもの」である。それらは人為によるVivarium-Aquariumの系譜にあるものであって、自然によるBiotope=Habitatの系譜にはない。また、水生園芸の立場からメダカをなぜ入れるのかと言えばボウフラなど、外からやってきた生き物の発生防止であり、メダカの立場からすればヤゴなどが発生するようではメダカが食べられてしまう。ビオトープを利用する生き物のかなり多くはメダカよりとても小さく、よい餌になってしまうようなものである。(実質的に、メダカより大きいのは一部のゲンゴロウコオイムシ、ヤゴくらいだ)そもそも屋内ではなかなかうまくいかないバランスドアクアリウムが、屋外でうまくいく理由は外から水場を求めてやってくる湿地生物をメダカが捕食しているからではなかろうか。メダカビオトープを「一種の」バランスドアクアリウムととらえたのはそのためである。一見閉鎖的なメダカビオトープとはいえ、広大な湿地帯生物ネットワークに一部を頼っているのである。そして、メダカがメダカより小さいやってくる生き物を食い尽くしたり、人がメダカより大きな生物を、メダカを害するとして駆除するようでは、その”メダカビオトープ”は地域の湿地帯生物にとっての死のトラップにしかならないのである。

 

ビオトープとメダカと水生園芸が悪魔合体した果てにあるものは

さて、ビオトープとメダカと水生園芸が異常醗酵した結果、「ビオトープ用植物」なる謎の商品が横行し、「ビオトープを作るためにメダカを放す、外来植物を植える」といった謎の行為や、「水生園芸植物の意図的な野外植栽による環境破壊」が問題化している。

その根本的な理由を述べよう。

ほとんどの人にとって「植物があると生き物の住処ができる」ことは理解できても、「売られている苗を外に植えるとまずいことが起きるかもしれない」ことは理解できないためである。

陸上園芸では、花壇に花苗を植えることがあたりまえである。だから、

園芸店に訪れる人にとって野外に植物を植えることには、ほとんど抵抗がない。

水上化にすら戸惑いと抵抗感を覚えがちなアクアリストとは対極にある。

それは陸上園芸において扱われる植物が野生での生きる力に乏しいものが多いためであり、それは園芸が「その植物をなんとかして美しく育てるために努力する」ものであり続けたからにこそ他ならない。

しかしバランスドアクアリウム・・・たとえば「メダカビオトープ」に用いられるような植物に求められるのは「水質浄化力と強靭さ」である。水質浄化力とはほぼ成長力と同義である。そんなものを陸上園芸と同じように外に植えたとき何が起こるか…考えるだけで恐ろしい。

しかし水生植物はあくまで水の生き物であって、水鉢という花壇から飛び越えて自力でどこかに行くことは難しい。

いくら高温多湿な日本であっても、水圏と陸圏には大きな壁があり、水生植物は簡単には逃げ出せないのである。

しかしその壁を突き崩すものこそ、ビオトープという「何となくいいことに思える言葉」であり、外来水生植物をその名のもとで売りさばく行為である

 

ビオトープの誤用は、単なる誤謬に留まらない、パンドラの箱をこじ開けるものである。

もう遅いかもしれないが早めにかじ取りをしなければ、水生園芸も、メダカ飼育も、水草アクアリウムも徹底的に規制される未来が、近い将来、くるだろう。

 

アメリカザリガニウチダザリガニというたった2種による、しかし激甚な生態系破壊によりザリガニ愛好家がどんな目に遭ったか?を考えれば、そんな未来はあり得ないものではない。いやこのままでは必ず来る。

私はそんな未来が来てほしくないし、できれば先延ばしにしたい。

だから今はメダカとビオトープと水生園芸の区分をできるだけはっきりと線引きし、「何を売っているのか?」を意識した販売形態をとってほしいものである。

 

P.S.

ビオトープ」が喧伝されてもう20年弱になるが、当時沢山あった水生園芸会社も生存競争からか、生産者の高齢化からかほとんどが消えて、現在、大々的に販売しているのはたった1業者、通販を含めれば2業者しかなくなってしまった。

スイレンカキツバタといった伝統的な水生園芸も昨今ではメダカのオマケ程度の薄利多売に明け暮れるばかりで、ちゃんとした良いものを買う入口を見つけるのが困難な状況にある。

こういった現状は、水生園芸を好むものとしては寂しい限りである。

今思えば、15年ほど前のあれも瀕死の水生園芸業界が生き残りをかけて新しくキャッチ―な語に飛びついていたのかも、しれない。