水草オタクの水草がたり.

水草を探して調べるブログです.素人ながら頑張ります.

ネガティブな話もせよ;生物多様性について、ポジティブな話をするということには弊害があり、むしろ自然に対する脅威である

南西諸島に行くたびに、生き物を保護する側と、生き物屋と称される人々の対立が年々ひどくなっているのを感じる。種の保存法は、「生息地を保護し、食害(たとえば年々増え続ける鹿害やザリガニ害)や開発から保護する」ことよりもはるかに、「生き物を採集観察飼育販売購入する人々から保護する」ことに重点を置いた法律になってしまっている。

生き物が好きだ、そういう気持ちは守る側も、とる側も同じはずなのに、なぜそんなに対立が生まれてしまうのか。

そういった謎に、ずっとずっと向き合い悲しんできた。

生き物に関して感じるストレスの大部分がそれだった。生き物を守ることに社会の理解は得られず、生き物が減り、生息地は消え、生き物を好む同志どうしが同じものを前にいがみ合い争いあう。

 

なにがいけなかったのだろう。

 

10年以上考え続けた。いま思っている結論は意外なものである。

生き物好きは、生き物についてポジティブな話をしたがり、ネガティブな話を排斥するからだ。

 

まえがき

 現在の日本では、自然が急激に破壊されている。生き物の絶滅は急激に進行しており、高度成長期にはその数を減じたものが最後の産地や自生地となり、そこが破壊や遷移により次々と各個撃破されている。

現在の日本において、地区単位での絶滅は今日も数知れず起きていて、今年みられた生き物が来年に見られなくなるのは日常茶飯事、やっとの思いで見つけたポイントの五年生存率は50%を切るような状況である。破壊はもはや、取り返しのつかないところまで来てしまっている。小規模な自生地の復帰や改善こそ保全を志す人々によってごく小規模に行われ、若干の戦術レベルでの前進はあるのは事実であり、いままで退却という一択しかなかったのに比べればたいへんな前進である。しかしながら、全体でみれば退却戦でしかなく、戦略レベルでの生物多様性の改善など望むべくもないのは、少しフィールドを歩いたことがある人ならだれでも感じるだろうし、そうでない人は現実が見えていないと思う。

 

しかし。

そういった状況は、実際にフィールドを歩き、触って、見た人、それも有名な素晴らしいポイントをチェリーピッキング*1した人ではなく、自力で這いずり回り、情報に頼らず生き物を探そうと試みた人にしか感じられないし、共有されてすらいないのである。

 

生き物を好む人々にとって、環境破壊や自然破壊というのは前提知識に近い。そのうえで、「こうしたらこんなに改善した」とか、「こんな素晴らしい生き物がいる」といった「ポジティブな話」をしたがる。そういった「ポジティブ」な情報は聞こえがいいし、発信者側も発信したがるし、最近のSDGsやネイチャーポジティブだとかの政策とも合致し、拡散されやすい。

そもそも、発信者側も暗澹たる状況に目を背けたい。

そんな暗い話なんてするな、とネガティブな意見を発信するようなものがいれば棒を持って叩きのめしに来る。臭い物に蓋をし、同調圧力をかけているというしかあるまい。

しかし、私はそうした

「ポジティブな自然環境に対する意見」こそが環境を破壊する

ように思えてならないのである。

 

現在の自然環境の状況は退却戦にすぎない、そう先に書いた。

そういった中で、ポジティブな情報だけを発信する、そう聞けば少し教養のある人ならとっさに頭に浮かぶ5文字があるだろう。

大本営発表

である。

 

わたしは生き物とは無縁の職場に残念で後ろめたいことながら拘泥されているので、普段はまったく生物多様性について興味がない、されどインテリジェンスは極めて高い、尊敬しあえるような仕事仲間に、雑談がてら生き物の話題を振られることがある。

くるたびくるたび、内容は驚くべきものである。

彼らにとって、自然は復活しているどころか、人間社会に対して逆侵攻をかけはじめたくらいだと思われている。

カメムシの大発生、海の貧栄養化、シカの増加、マダニの増加・・・

こういったものも、人口が減って高齢化し、自然環境の保護によって自然が元気を取り戻しすぎたために牙を剥いていると、そう思われているのである。

そこには、自然環境が次々に破壊され、最後の砦はあっけなく陥落し、今もなおさまざまな種が絶滅しつつあるという共通認識はどこにもない。

先に書いたが、私が話す相手は非常に尊敬できる相手であり、世間一般の認識よりはだいぶクレバーな方に入るだろう。しかしそんな意見が出てきて、くらくらする。

世間一般の認識では雑草が茂るのも、気象が悪いのも、みな「自然のせい」である。

二酸化炭素を削減しよう、というのは国策でなんとなく認識されているし、そのために木を植えたり草を生やしたり、壁を緑に塗ったりと緑色を増やせば達成できると思われている。しかし、自然環境を守ろう、というのは一部の酔狂な人々の考えに過ぎないし、そうした人々によって自然は元気になってきている、そう思われているのだろう。

 

そうした現状の中で、自然保護がどう映るか、もう言うまでもないだろう。

「人類の敵」

である。

そうした状況を作ってしまったのは、上記のような大本営発表ではないだろうか、そう思った。

負けているのに勝ったと報じる。負けているとわかっているのは、戦っている本人だけ。そしてそうした本人すらも、負けているとなど言い出せず、言い出せば処分される。

 

そうしたことを前提にして、本題に入りたい。

 

生き物に対する「ポジティブな」投稿は、生き物のセールストークにしかなっていないのではないか?

SNS、ブログ、書籍、雑誌、ネットニュース。

見ていれば、生き物のすばらしさを発信する投稿が溢れている。そこにはたいてい多くのオーディエンスがつき、すばらしいですね!とちやほやする。こんな生き物を見てみたい!と思う人がいれば、「かってみたい」とか、どこで「とれる」んですか?と沸き立つ人もいる。

そうした「明るい」投稿は人の目を引き付けるし、発信する側にも気分がよく、また自己顕示欲を満たせるので、多くの人々が投稿しやすい。

そして、その内容はたいてい、「その生き物の魅力」についてだけである。

その内容は本質的には「この飼い猫はかわいい」というものと何ら変わらない。

その生き物がどういう状況にあるのか、その内容はたいてい伝えてくれない。伝えてくれたとしても、悲劇的な状況の中からいいものばかりをピックアップしたセールストークだ。生息地の破壊とか、みんないなくなってしまった、などとは書かない。珍しくレアになってきた、というように書きがちである。絶滅危惧種という呪いのこもっていたはずの言葉は、レアリティの言い換えになってしまった。

それを聞いたとき、人はどう思うだろうか。

「生き物に対してのポジティブな発信」により、自然趣味者は分断され、力を失い、各個撃破されていく

「その生き物の魅力」だけを聞いた人々は初手でどう動くだろうか?

A.その生き物が欲しくなる・・・大多数

B. その生き物を保護したり、研究する・・・きわめて少数派

となるだろう。セールストークになってしまっているのだから当然である。

綺麗なもの、すばらしいもの。しかもそれが珍しいとなれば、人は手元に置きたくなる。私とてそうした一員である。

しかも、人間は飽きっぽい。ビギナーは沢山いても、玄人はごくわずかだ。しかも、多くの「生き物好き」は生き物の採集者か観察者に一生終始する。私だって(部分的にはそうではない面もあるけど基本的には)そうである。

そして、オークションやショップでその生き物を見かければ購入する。

そこに需要が生まれ、商売が生まれ、乱獲を生む。

そして時間差と選択圧の結果として、生き物の採集観察者と、生き物の保護者・研究者は数的にも大きな格差ができ、対立が生まれる。そして、共に手を取り合うべき仲間同士で殺し合いが始まるのだ。

 

「ネガティブな発信」はしてはいけないのか?

多くの自然発信者は生き物や自然のセールストークをしがちである。しかし、現実の自然環境は破滅的な退却戦のさなかにあり、その実態は闇と破壊と絶望の中にある。野生動物の輝きは、暗がりの中にあるからこそ光る星の輝きだ。それそのものの美しさや価値は、人が観賞するために作りだしたもの・・・たとえば飼い猫や金魚に劣る。劣ると断言したのは、一般人口にアンケートをとったらそうなるだろう、という意味である。しかし、生き物に関する発信者はそうした暗い部分について言及しない。

なぜなら、生き物に対して発信するような人にとって、その暗がりは当たり前だからだし、目を背けたいことだからだ。

誰もあたりまえの、かつ目を背けたいようなことについてわざわざ言及したりはしないし、そんな暗い話するなよ、となる。しかも破壊と絶望があまりにも当たり前すぎて、いちいち言及すれば「暗いやつ」になってしまう。

そうしたことは、発信者側からしても避けたいし、受信者側からもハブられかねないと危惧する。

さらにいえば、暗いことをいうことにより生き物を守ることに弊害が出ると本気で信じている人も多い。

しかしそれは、相手が同じ地平で物事を見ていると勝手に錯覚し、エコーチャンバーの中にいるからにすぎない。

 

そもそも、自然環境を守るべきであることすら理解されていない

そもそも、市井の人々は自然が危機的な状況にあることを知らないし、見ようとしない・・・いや、見たことがないのだ。

自然は様々な技術改革や自然保護活動によって「元気になって」いるし、海の魚が採れなくなったのは「環境にやさしい先進的な下水処理によって海に栄養が流れなくなったため」だし、希少種が減ったのは「珍しい生き物をコレクトする採集者が増えてとりつくした」せい、カメムシや鹿は自然が元気になって爆増して人々を脅かしている・・・そう本気で思ってしまっている。

インターネットにいる、生き物や自然環境に明るい人々の間にはそういう変な報道や発信はファクトチェックされ、おかしな話として認識されている。しかしその常識は通用しない。

市井の人々にとって、自然とは偉大であり、手のつけがたい存在で、人によって脅かされたのは昔の話、である。

そうした背景のなかで、むしろ求められるのは自然の危機に関する発信である。

 

となりの絶滅

南極の氷が解け、シロクマが住む場所がなくなり、ペンギンが困る・・・自然破壊のイメージは二酸化炭素削減と結び付けられて当初語られだした。今もときに見かける、ペンギン型の貯金箱は象徴的だ。絶滅は遠い世界の話で、いま〇分に一種が・・・といわれても、いまいちピンとこない。

それを覆しうるのは、やはり肌に触れる、身近な、「となりの絶滅」である。身近な環境が地獄と化している、そういう感触は少しくらいあってもいいはずだ。

 

ネガティブな発信は一般の人々を絶望させるか?

そうしたネガティブな発信が一般の人々を「もう絶望的なのだから守る必要はない」というように思わせると思う生き物好きは沢山いると思うし、先日はそうした反論や批判があちこちで飛び交った。

しかし、杞憂だと思う。

人間の脳というのは「都合の良い情報を取捨選択して取り入れる」ようにできている。

たとえば、非常に厳しい現状を話したうえで、Aという方法により〇割は改善するかもしれないしだめかもしれない、といった内容の話をしたとき、(内容はどんなトラブルであれなんでもよい)、受け取った内容は「Aをすれば改善するかもしれない希望がある」のであって、「もう無理だ」とか、「手を尽くしても10-〇割はダメだ」ではない。このように、人間は勝手に情報をチェリーピッキングするようにできているし、それが破綻すれば、あっという間に心を病んでしまう。そういう防衛機制が進化の中で備わっている。そしていい面以外の内容は、長い目で見ればそこまで心に残らない。

しかも、現状ですら、ポジティブな生き物に関する話は市井にあふれかえっている。人間には記憶力があるので、ネガティブな内容をみて、その後ポジティブな話をみれば、あるいは逆であっても、結局はネガティブな面もあるポジティブな内容になる。

だから、「ネガティブな発信」をする人が数百人いようが、人々を絶望させ保全活動を阻害するような危機を引き起こすことは無いだろうと思う。

むしろ、「自然、今ヤバいぜ!」という意識がちょっとは心の片隅にできることによる利益の方が将来的に見てずっと大きいように思う。

また、それは今後生まれてくるであろう、生き物や自然にかかわる人々の予後にも大きくかかわるだろう。

危機的な状況にあるから守らなきゃ、というのは本能的である

弱いものを助ける。

わたしが好きな言葉です。

少なくとも人類の1/3くらいはいる、善良であったり善良でありたい人々にとって、危機的であると聞けば、それをなんとかしたいと思うのは当然のことだ。

そもそも人間は社会を作り、互いの弱い点を助け合って生きているし、そこから逃れられない。そういったことを支えるのが、人間の善性である。善性なしに人間は社会を築けなかっただろうし、自然環境をここまで破壊することもできなかっただろう。

善性の一部には「相手を思いやり助けること」があることに異論はないと思う。

危機的な状況にあるものを助ける、というのは本能的かつ、本質的なのだ。

だから、危機的であるという発信は、守られるためにはむしろ有効であると思う。

 

危機的な状況にあるということを踏まえたうえで、どう動くだろうか

わたしは幼少期の自分に問いたい。

ここにいる生き物はみんな、君が成人する頃には滅んでいるよ。どうする?

と。

たぶん私は、ぼくが何とかして守りたいと答えたと思う。絶望したとは思えない。

小学生の時に拾ってきたミズトラノオは、今年ももう少しすれば咲き誇る。こんなに咲いているけれども遷移は目に見えて進んでおり、ここでいつまでも持つとは思わない、小学生の時点ですらそう思って3本だけ切って持ち帰ってきたものだった。他の系統に比べるととても育てにくく虚弱だけれど、どうにかしてでも維持し続けたいと思っている。当時近所でなんとなく拾ってきたシカクイやコブナグサやヌマトラノオもまだ生きているけど、めっきり減った。庭で一番普通のトンボだったミヤマアカネは、だんだん減って見に行かねばならない虫になって、ついに滅多に見られない虫になった。庭の石をめくればキバネツノトンボの幼虫がいた。その牙は小学生の私にとって、小さなギラファノコギリクワガタにみえた。それも今となってはどう探していいのやらわからない。毎夜やかましかったアマガエルの合唱は、今目の前で薄くなり、ヌマガエルに置き換わっていく。あこがれだった、あんな虫やこんな草は御禁制品になった。

覚悟も何もできないまま、気付けば残酷なる時間に何もかもが奪われていた。

だから、私はあの時の自分に伝えたいのだ。

「今を大事にしなさい。今を残しなさい。今を忘れないでいて」と。

記憶はしようとしなければのこらない。あの時もっと自覚的であれば、もっといろいろな記憶が今の私にあっただろうし、少なくともそれは私を絶望の淵に落とすものではなかっただろう。

 

*チェリーピッキング・・・おいしいところをかいつまむこと。