水草オタクの水草がたり.

水草を探して調べるブログです.素人ながら頑張ります.

お魚きらいきらいきらい,すき.

私は水草オタクだ.

しかし,世間では水草レイアウトと検索すると,テトラやバルブの写真がヒットするようである.そう,世間の認識は,たとえ水草レイアウトであろうとも,ネイチャーアクアリウムであろうとも,「魚のための豪華な飾り台」に過ぎないのである.

 

私は魚は嫌いだ,そんな話をよくする.魚なんて,魚なんて,とよく言う.

最初に興味を持った生き物の中に魚は第一に含まれていたし,魚とりも相当やったし,熱帯魚もそれなりには飼育していた.

ただ早々のうちに,私の興味は節足動物に向くようになった.そして「そちら側」の視点から魚というものを考えてみたりもした.

       実に醜悪で恐ろしい生き物である.

考えてもみたまえ.

進撃の巨人という作品が流行ったが,魚とはあの世界観における巨人である.

素早く,目がよく,鋭い歯を持っていたり,強力に獲物を吸引する.おまけにしつこい.狙った獲物は的確に,執念深く追ってくる.さらに満腹中枢がないため,目の前に獲物がいなくなるまで,吐きながらでも喰らいつくすのである.彼らの食欲は生きるためというより,居場所を作るために他の生物を殺戮しつくし駆逐するためであるかのように思えた.

しばしば,「魚のえさはミジンコなどのプランクトンである」と書かれている.

しかし,魚のいる水槽の水や底の沈殿物,フィルターの中身に至るまで実態顕微鏡で見ても,動くものはほとんど見ることが出来なかった.しかし,ヌカエビしか飼っていない水槽ではその多様性に驚かされた.繊毛虫,ワムシ,カイミジンコ,ケンミジンコ,マルミジンコ類,大きなものではフロリダマミズヨコエビに至るまで.

魚は,すべてを食らいつくすのである.実際に,すべてを食らいつくしていたのである.その経験から,魚というものがとても怖くなった.あんなものはいない方がいい,と思うほどになった.

それに,流通する熱帯魚の繁殖がいかに難しいことか.魚をやる限り,ユーザーはあくまで一消費者にすぎないように感じた.自分で増やすというののハードルが高すぎてやる気が起きない.一消費者をやめようとすれば,生活が魚に押しつぶされてしまう.

そうこうしているうちに水草を始めたのであるが,水草を育てている水槽では実体顕微鏡にもだいぶいろいろな生き物がみられるようになって,やはり魚はいるだけで害悪であるという認識が小学生のころにはもう確立されてしまった.それは今も変わることなく,続いている.

 

しかし,ここまでディスっておきながら私は魚が好きだ.

でなかったらアクア雑誌なんて水草の部分だけ切り抜いて捨ててしまうだろうし,ショップで珍カラを眺めたり,ワイルド品が入ると何か混じっていないかと血眼になって探して,当たりを見つけたらFishbaseを探るなんてことはしないだろう.

まず魚はべらぼうに種類が多い.水域を超えて移動する能力が低いこともあり,水草のように超広域分布種が大陸単位で支配するということもない.魚どうしではあまり食い合わないから,コレクション性は高い.そしてべらぼうに頑丈である.

よくpHショックというものが言われるが,本当にくるくる回って絶命する類のpHショックは7を跨がないと起きないようで,弱酸性から酸性に下げる分には粘膜が荒れる程度の問題しかなく,粘膜の荒れに関しても1日もすれば大抵治ってしまう.(よい子はマネしないように)エビだったら昇天確定だし,かの悪名だかきスネールやミズムシだって過半数が死滅するような条件であっても魚はわりと生きながらえる.

このように,魚は集めて飼うのに極めて向いている.私が上記のような感想を抱いてもう久しいのに,しばしば珍カラ等を眺めては買いたくなってしまうのはこのためだろう.やっぱり魚って偉大だし,魅力は計り知れないものがある.

熱帯魚屋に足繁く通うとしばしば当たり個体を目にするし,ほとんどのショップにみるべき水草はない2020年代では魚でも眺めて用具買って帰るか…というのが定番になってくる.そうやって目が肥えてくると魔性の熱帯魚の魅力に引きずり込まれそうになり,ついつい水草を食べるカラシンやら水草をつつく(らしい)エンゼルフィッシュやらであっても,当たりを見つけるとついつい買いたくなってしまう.

       しかし,それは禁断の果実なのである

持論だが,水草水槽が失敗する最大の原因は魚の入れすぎである.魚の入れすぎでpHが下がる云々という方もいるが,フンでpHが下がっても水草は育たない...窒素肥料は結局肥料を足せばいいだけで,変にカリウムだけ足すというのは不自然に思える.

 

さらにさらに,私の好むような水草の栽培は大抵の熱帯魚よりは難しいので(簡単なものはそれこそ魚や観葉植物よりよっぽど簡単だが,そういうのは見た目が琴線に触れないのである),魚を一度始めてしまったら楽な方へ,楽な方へと流れて結局ただのお魚飼育者になってしまうのが目に見えている.

はじめたころ水草をやっていた同志はみんなそうなっていって,いまでは上陸してテレストリアリストになりつつある.

水草を今もやっている同志は,いまやめったに見当たらない.

 

そうやって日々,「お魚入れたい欲」に抗いながら水草を探すのであった.