水草オタクの水草がたり.

水草を探して調べるブログです.素人ながら頑張ります.

水槽レイアウトに関して思うこと…水景はジオラマである、ジオラマに”本物”を使うべからず…

先日、アクアリウムを題材にしたゲームが発売されたという。内容としてはゲームフィールドから水草や流木を採取してきて水槽に配置・配植する…というものらしく、海外での水草熱の高さには驚かされるばかりである。(多分もうその辺の熱量では日本よりずっと先を行ってるんだろうな)

Youtubeでも海外の水草動画がときどき投稿されるので見るが、野生から水草や木を採ってきて配置して水槽に現地で並べる…という動画もちらほらと見かける。

海外で最近流行っているビオトープアクアリウムというのも、できれば同じ”産地”の魚や水草を揃えるべき…らしい。

だが、私はそうしたものを見てとても変な感触を覚えてしまうのだ。

…現地からモノごと切り取って持ってくるのって創造性ある?と…

 

水景とは天野尚が作った語であるが、自然を水槽に切り取った”かのような”、”自然のエネルギーを水槽に再現する”芸術だと私は捉えている。そして、自然を水槽に取り込むにはスケールの差があって、リアルな現実をそのまま持ってきたとしてもそこに観賞価値は生まれないのである。

つまり、水景とは、無限大のキャンパスに描かれた自然を、60×36ないし120×45ないし、の限られたサイズの中に圧縮して出力した、家庭サイズに濃縮された自然の創出である。

つまり、水景とは生きた植物を使ったジオラマ(情景模型)なのである。これはアクアリウムであろうが、テラリウムであろうが変わらない。

*ここでいう「ジオラマ」はハードスケーピングとかでしばしば揶揄的に言われるものではない点に留意。そもそもそういうジオラマ作品も少数派なような…

 

さて、ここまで考えたうえで水景にこだわるポイントとは、何だろうか?

それは、

「本当はそうではないものを、いかにもっともらしく演出するか」である。

そして、その視点から考えると、そのままのものを野生からむしってきて配置する、というのはあまりに幼稚かつ面白くない解答なように思われるのである。

水槽はどうあがいてもジオラマの一種である。

そしてジオラマとして水槽を創る以上、「ホンモノじゃない」ほうが寧ろホンモノらしくなることもあるし、「ホンモノじゃないけどホンモノっぽい」のを作れた方が、カッコイイのではないか?と私は思うようになってきた。

 

ただ、「ホンモノじゃないけどホンモノっぽい」もあまりに度が過ぎると雰囲気だけの、色使いだけのために色鉛筆のように水草を使うだけの面白くないレイアウトになってしまう。(レイコンが一時期、石と色鉛筆代わりの色違いロタラばかりになったみたいに)

ある程度の規則やこだわり…たとえばこの水槽には南米のものしか基本入れない、とか…はあった方がいいし、植生を踏まえたうえで自然を表現することは、自然を「風景」としてみるのではなく「生態系」としてみることが多いだろう生き物好きにとっては欠かせない視点である。

ただ、それにあまりにも細かいロカリティを追いかけ続け、既知の栽培系統があるにもかかわらず採集圧を野生にかけ続け、自然を簒奪して水槽に突っ込むようなことが続くのはいただけない。とくに日本産のものなどは手近なだけに、そうなりがちである。

だいたいこの種はいるよね、くらいで正直いいと思うし、水槽での形態的に矛盾しないのならば”本物”を入れる理由は自己満足以外に存在しない。しかも、それは芸術性を削ぐ方向での自己満足でしかない。

大外れをひかない程度でだいたいここにこれがあっても矛盾しないよね、とか、ここのこれは形似てるけど入手可能な種で代替、とか、そういった形で妥協点を探りつつ、その妥協をただの妥協ではなく芸術性を高める方向に発展させていったら、と思う。

 

あまりにも「レイアウトで使える、使えない」の話ばかりされて植物自体の価値が一蹴されていた数年ほど前から、少し風向きが変わってきたと思う。しかし、だからといって”本物”にばかり手がいく、自然の簒奪者になるべきではないし、かつてからある栽培系統をないがしろにしてロカリティばかりを追い求めるのはどうか、と思う次第である。