水草オタクの水草がたり.

水草を探して調べるブログです.素人ながら頑張ります.

水草レイアウトについて

水草を楽しむうえでもっとも有名なのが、水草水槽であろう。

はじめに、水草水槽と水草レイアウトは同義ではない。水草水槽とは水草を育てるための水槽であって、水草レイアウトは水草で作った芸術である。だからストック水槽も立派な水草水槽であるし、ナヤスのたくさん茂ったグッピー水槽もまた水草水槽であると、私は考えている。逆に、ドラセナやアコルスを沈めて見事な水槽芸術を作ったとしても、それは水槽レイアウトかもしれないが水草水槽とは言えない。それは水中で育てられないし、育つことを見込まれていないからである。

さて、水草レイアウトという言葉は日本では広く用いられているが、Aquascapeという語のほうが海外では人口に膾炙しているようである。風景に対する水景である。しかしアクアスケープや水景というよりも水草レイアウトと呼んだ方が日本では伝わりやすいし、水景という言葉を広めたのはADAであるわけであまり中立的な視点とはいいがたい(私がそもそも中立的でもなんでもないというのが最大の問題だが!)

 

ダッチアクアリウムについて

最も古典的な水草水槽は、バランスドアクアリウムに代表されるような“小さな生態系”を作ることを目標としたものである。水草をアートとして扱うという領域には当時の時点ではまだまったく達していなかったが、その中でも水槽を小さな庭としてとらえる運動は起こっていたようである。それらが結実し、水草をより美しく育てて楽しもうと完成された姿がダッチアクアリウムであり、最も歴史が長いレイアウトスタイルといえる。

ダッチアクアリウムは基本的には、水草のみをレイアウトに用い、それらが丹精に立ち並び、それぞれの個性を対比させることをめざす。要するに水草をただ育てるのではなく、綺麗に並べて展示するようなイメージである。だから伸びすぎた分は差し戻しによって頂芽を揃える。ダッチアクアリウムは“西洋庭風”としばしば形容される。ダッチアクアリウムの擁護者たちはこれを“水草の美を引き出すためのスタイルだ”と讃え、対立者たちは“花壇のようで人工的だ”と言いがちである。

脱線する。

昨今では日本語でダッチアクアリウムとは何か、どのようなルールによるものか解説しているものがほとんどない。そのためここに、簡易ながらも印象に残りやすい形でルールを説明しようと思う。ダッチアクアリウムには「栽培法」という面と「配植」という面の2つに大きな特徴があるが、ここでは「配植」という面だけの観点から解説したい。

ダッチアクアリウムの神髄は、「水草それぞれの個性を重視する」ことである。

やたら多いルールもその一点のためにあると考えると理解しやすい。そのためには色や形がそれぞれ「全く異なる」ものを隣り合わせてレイアウトが構成される。そして一種一種の水草はある程度の“ボリュームを持って“配置される(そうでないと、その水草の個性が弱いものになってしまう)。そして水草の個性を引き出すために、それぞれの水草はグループをもって、きっぱりとした分け目を作って配植される。きちんと対比するために、前景、中景、後景を設け、それらの高さは揃えられなければならない。多すぎてはごちゃごちゃになってしまうので、種数を絞る。幅10㎝あたり1種を植栽する。最後に、黄金比を意識してそれらの対比をデザインする。

根底にある思想を理解すればダッチアクアリウムのレギュレーションはそこまで意味不明なものではない。しかしレギュレーションが細かすぎるとの批判や、レギュレーションに沿った水槽を作るには莫大な資金と水槽サイズが必要になることなどから近年下火になりつつあり、寂しいかぎりである。

 

ダッチアクアリウムの亜型とでもいうべきものについて

伝統的なレギュレーションでは、ダッチアクアリウムは似た色の草を並べない、コントラストを作るなどの様式美を作ることが重視されてきた。しかしダッチアクアリウムと銘打ってはいないものの、珍奇な水草(例えばホシクサや赤い水草など)をひたすら花壇のように並べて、コレクションと同時に視覚的にも楽しもうとする動きが見られる。特にアメリカでは“真っ赤水槽”とでもいうべき、赤系水草と赤系水草と赤系水草を植えて水槽全体を真っ赤にするスタイルを楽しんでいる人も多い。日本でも同様のものが複数作られたことがあり、レッドアクアートと呼ばれたようだ。これらはたしかに水草の美を引き出し、かつ美しくコレクションする目的のレイアウトであって、ダッチアクアリウムに非常に近い立ち位置にあるものの、新しいジャンルの水槽群であるといえるだろう。このタイプの“コレクションボックス水槽”(いま私がかってに名付けた)は比較的省スペースで楽しむことができるため、これからもっと注目を集めるかもしれない。少なくとも、アクアリウムをやっていて「水草って面白い!」と感じた方はまずこうした水槽を作ってみるのは楽しそうだし、ぜひともお勧めしたい。

 

ジャングル・スタイルについて

日本ではあまり知られていないものとして、ジャングル・スタイルなるものがある。これは水草がぐいぐい育つ力強さを正面に押し出した様式であり、水草を野性味の演出のために用いる。ダッチアクアリウムのように「きれいに並べる」こととは対照的である。ジャングル・スタイルも相当に歴史があるようなのではあるが、良くも悪くもレギュレーションや規則があまり厳格に定まっておらずコンテストもないことから、成書や言及が少なくなかなか調べにくい。山田洋の「水草百科」にも「ヨーロッパでみられる植え方の多くは、水槽内へ熱帯の自然をそのまま再現させようとするものと、(中略)オランダ式と言われる2つの植え方に大別できます。」とあり、当時からダッチアクアリウムの対立概念としてジャングル・スタイルないしそれに類似したものがすくなくとも1980年代には存在していたことが伺われる。吉野敏の「水草の楽しみ方」(1991)で“ドイツ式水草水槽”ないし“オプティマム・アクアリウム”として取り上げられているものは、Duplaの創設者であるKipperとHorstが著したDas Optimale Aquariumに取り上げられているもので、レイアウトの様式はジャングル・スタイルと現在言われているものとほぼ等しい。しばしば「ジャングル・スタイルはダッチアクアリウムネイチャーアクアリウムの融合である」というようなことが書かれがちであるが、ジャングル・スタイルないしそれに類似した系譜を組む作品はネイチャーアクアリウムよりも前に発生しているように思われる。

日本ではジャングル・スタイルは全く認知されていないが、意図せずとしてジャングル・スタイル的になっているカッコいい水槽は日本にもたくさん見られる。

 

アクアート・密植水槽について

アクアートは日本発のレイアウト様式であり、日本初の水草レイアウトの様式でもある。現在ではアクアートと銘打った作例はほとんど存在しないため、過去の資料に頼るほかない。しかしながら、その方向性は水草レイアウトとは何なのかと考える上で非常に参考になるだろう。先にも述べたように、ダッチアクアリウムの神髄は水草の育成と対比であり、ジャングル・スタイルとその類の神髄は野性味の演出である。それに対しアクアートでは水草の色や質感を素材としてとらえ、水槽全体として1つのアートを作ることを目的とした。アクアートはさらに、ヨーロッパの影響を強く受けた“平面的”(水槽の前面から見た景観がすべてであるといえる)なヨーロッパ式アクアートと、印象を重視し、石や流木、ときには人工物をも取り入れ、水槽内に情景を描写することを目的とした日本式アクアートに分けられた。アクアートの流れをくむ作品は1990~2000年代に数多く見られる。たとえば密植水槽といわれる類のものは西洋式アクアートの発展版であろうし、流木にモスやボルビティスをつけ立体的に配置し、水中空間をバランスよく演出する方法もアクアートに起源があるだろう。現在主流のネイチャーアクアリウムに比べると古臭い印象を受けてしまうことは否定しないが、これらがネイチャーアクアリウムや西洋のアクアリウム様式とは違う方向性で発展してきたことは作品を見れば疑うべくもない。私が密植水槽とアクアートを同じジャンルにまとめたのは、これが理由である。

日本式アクアートでは1980年代の時点で親石・脇石をはじめとした日本庭園の技法も模索され、のちに日本から世界中に広まることになり、他の様式を殆ど駆逐したレイアウト様式にきわめて近いところを目指していたことは、特筆すべきである。あるいは、世界を席巻している水草レイアウトの様式とは、実は日本式アクアートなのかもしれない。

 

ネイチャーアクアリウムについて

アクアートの項で日本で水草レイアウトは、ガラパゴス的な特殊化を遂げつつあったことを述べた。それを突き詰めたのは誰もが知る日本の鬼才、天野尚である。天野は多方面に天才であった。競輪選手として培われた強靭な体力はアマゾンや熱帯アフリカなど、世界の水辺で現地の水景を実際の目で見て学ぶことを可能にした。さらに写真についても才覚高く、現地の鮮烈なイメージを持ち帰った。写真家としての才能はレイアウトの構図を作るうえでその能力が遺憾なく発揮されたことは疑いようもない。さらに飼育・栽培の面でも研究を重ね、頭ひとつ抜きんでた栽培技術を体得した。このような天才アクアリスト、天野尚が満を持して発表したのが「ガラスの中の大自然」であり、ネイチャーアクアリウムの概念である。

さて、ネイチャーアクアリウムとは何なのか、天野は言及を避けているようにみえる。天野が作った作品群は当時のアクアリウムの中でセンス的・美術的に極めて抜きんでていて、自然のエネルギーや力強さ、時間の経過といった重みを感じさせるものである。こうした“重み”を「わび・さび」として、海外にネイチャーアクアリウムを布教する際に天野はしばしば引用した。しかしその一方で、それにとらわれる必要もないといった発言もみられる。どこまでがネイチャーアクアリウムなのかは放置されてきた問題であるし、日本式アクアートがその最初期からかなりネイチャーアクアリウム的な性格を帯びているように読めることから、そもそもネイチャーアクアリウムに先進的な美的センス以外にどれだけの独自性があるのかにも疑問がある。そのためあくまでも私は、ネイチャーアクアリウムおよびレイアウト史を異なるコンテクストでとらえようと思っている。

 

パルダリウムについて

ヨーロッパにあり日本にはない水草レイアウトの様式として、パルダリウムが挙げられる。日本では一度絶滅し、変質した形で再導入されてはいるがもはや元々の姿をとどめてはいない。2014~2016年にかけて日本では急激に広まったが、これはパルダリウムの名を借りたテラリウムであり、本当のパルダリウムとははっきり区別される必要がある。おそらく日本におけるパルダリウムの誤解は、アクアライフ2016年7月号にあるだろう。同号ではパルダリウムを「水はあっても少ないかわずか」とし、アクアテラリウムと対比させている。しかしながらパルダリウムの語源と由来を考えてみればこれは誤りもいいところであるし、海外のパルダリウム・コンテスト(たとえばAGAのもの)では毎年、水のない作品が失格になっている。

現状、本来のパルダリウムに関する情報は絶滅危惧種にまでなりつつあるが、非常にザックリとだが述べておく。

パルダリウムは水と陸の繋がりを重視し、芸術の域に高められたアクアテラリウムの一型であり、水中と陸上の調和と両方の繁栄が重視される。

したがってパルダリウムは陸上植物のレイアウトであると同時に同じくらい、水草レイアウトでもなければならない。自然的な調和が重視されるため、水中部のレイアウトは往々にしてジャングル・スタイルやネイチャーアクアリウムに似ていることが多い。

 

アトラスレイアウト/ワイルドアクアリウム/ビオトープアクアリウムについて

この三者は非常に古い系譜をもつが、レイアウトじたいとして特殊な方向性を持ち始めたのは比較的近年のことのように思われるので最後に述べた。根本的な概念は「原産地の再現」である。アトラスレイアウトではレイアウトに用いる魚と水草の産地を揃えるだけだったのが、ワイルドアクアリウムビオトープアクアリウムでは原産地を(汚い部分まで込みで)再現することを重視する。ワイルドアクアリウムビオトープアクアリウムでは微妙にニュアンスが違い、ビオトープアクアリウムの方が厳密な再現を目的とする。熱帯魚の原産地再現の取り組みは沢山行われているが、水草を主役としてその原産地を再現するような取り組みはほとんど見かけず、水草水槽のフロンティアであろう。

 

水草レイアウトを美術史として考えてみる

これはあくまで私の感想であることに留意してほしい。

19世紀にアクアリウムが登場した際、最初の目標は「熱帯の自然をそのまま切り取ってくる」ものであった。しかしながら当時は技術・ノウハウ的な制約が非常に大きく、そうしたものの実現は困難であった。そのため水草レイアウトははじめ、美術的な価値に乏しいものであった。1950年代になってようやく蛍光灯やフィルターなど水草を育てる技術が発展すると、ヨーロッパでは野生らしさを表現する系譜と、水草の美を様式化して楽しむダッチアクアリウムという2つの大きな系統に分かれた。その後ダッチアクアリウムが重用され、水草レイアウトを代表するものとまでなった。ダッチアクアリウムは様式化の極致として様々なルールができ、美術としての地位を確立し、完成の域に達した。ヨーロッパにおける水草アクアリウムはダッチアクアリウムに収束していったが、いっぽうで野生らしさを表現する方面は注目されなくなり、全く新しいレイアウトを作る柔軟性が失われて早くも停滞期に入った。

日本では立花吉茂や山崎美津夫らにより水生園芸は盛んに行われていたが、水槽での栽培は限定的で、多くのアクアリストにとって水草は飾りか魚飼育の道具でしかなかった。戦前から水草の栽培自体はおこなわれていたようだが、日本においてそれらは芸術の域に達するまで西洋に比べ20年ほど遅れた。

1968年に和泉克雄はアクアリウムを「水中牧場」と称し、その中で水草の目的を”魚達が快適に生活するための緑のある場所づくり”とした。「水中庭園または水中盆景」に関しては”水草の美的な方面の利用に、近い日に、今までになかった新しい芸術が創造されるであろう”としている。つまり、1968年の時点では水草レイアウトは日本では芸術として確立されていなかったのである。

日本において水草レイアウトが美術としてなかなか昇華できなかった理由としては、魚の飼育に好適な環境では水草もよく育つ、魚がよく育てば水草もよく育つ、という固定観念にとらわれ、基礎的な栽培技術が発展しなかったためであろう。

大磯砂を敷き、熱帯魚を飼育していれば水草は(よくわからないが)そのうち育つようになる、という状況は1960年代から今に至るまでほとんど変わっておらず、それを改善するために何を能動的に変えればうまくいくか、という点に関しては数”流派”のお家芸とでもいえるようなものであり、体系的な整理が全くなされていない。

その混沌を部分的ながらも打破したのは80年代の山田洋ら、吉野敏らによるダッチアクアリウム技法の輸入であり、天野尚による技術開発であり、90年代のニッソーによるアクアプラントサンドの開発であった。

日本における水草レイアウトの登場は1980年代まで待たねばならない。山田洋らを先鋒として、ヨーロッパの模倣からはじまった水槽での水草アクアリウム水草を素材として用い、水槽内にアートを作り、自然をイメージのもとに写実し自然以上のものを作り上げる方面に変化していった。ただしこうした試みは栽培技術が未熟で、しかも前例がなく模索の域が続いたことからなかなか実を結ばなかった。卓越した美術センスと栽培技術を兼ね備えた天野尚によって日本式の水草水槽は急激に認知度を上げ、世界的に広まることとなった。

 東洋において形式化・様式化が進み、西洋において写実が発達した平面美術とはちょうど逆の現象が起きていたのではないかと思っている。平面的な、水槽を正面の二次元空間としてとらえ、理論ベースに技術進化と様式化を進めていったダッチアクアリウムと、三次元的な配植と構図を発達していった日本式のアクアリウム群とのあいだには大きな隔絶があり、アクアリウム用品が揃った1950年代からたった20年ほどの間に全く別の方向に進化していたと私は捉える。

天野のネイチャーアクアリウムルネッサンスに形容できるかもしれない。天野の栽培技術は独自の進化を遂げながらも西洋のダッチアクアリウムと遜色ないまでに進歩しており、そこに西洋のダッチアクアリウムではみられず否定すらされていたような、発想の自由さを加えたものだったからだ。天野のネイチャーアクアリウムの特徴はその名前に表されるように、天野が実際に見てきた野生の息吹を水槽に吹き込むことであり、美術としては風景画の類に近い。それは草一本一本とその色合いをめでるダッチアクアリウムとは違うジャンルであった。そしてネイチャーアクアリウムは、「熱帯の生態系をそのまま持ってくる」19世紀アクアリウムの構想に非常に近いものであった点でもルネッサンス的であったといえよう。

こうした1990~2000年代のネイチャーアクアリウムルネサンス期のネイチャーアクアリウムとでも呼ぼうと思う。わざわざそう称するのは、その後にバロック新古典主義と類似した運動が起きたと私は考えているからである。

さてその後も天野の水槽に強く影響を受けた“ネイチャーアクアリウム“と、それ以前からのスタイル(水中ガーデニングなどと称された)が2000年代まで共存し続けた。2000年代のアクア雑誌で水草水槽を取り上げる際、「これだけでできる水中ガーデニング」などといった表現が目立つことからして、共存できた理由はネイチャーアクアリウムがかなり高額な機材を要求することが多く手間も非常にかかる高級品であったためであろう。

2010年代になると”ネイチャーアクアリウム”はどんどん芸術化していった。最初は流木や石は大まかな線を水草の茂みに引くものであったのが、石や流木を主役に使い、水草で緑を彩るように変質していった。特に天野尚の没後は顕著になり、“ジオラマ系”と称されるようなものが増え、水草レイアウトというよりも石のつなぎ方が重要であるかのような状況とまでなった。これは西洋絵画史でみれば、ルネッサンスに対してバロックロココ的である。非常に装飾的な作風はしばしば、“陸上の風景的”であって実際の水中の風景とはあまりにも乖離しているものも多かった。天野氏の現役時代にはそうした作品は高評価を得にくかったのが、そこの歯止めが外れたことも原因だろう。2010年代のネイチャーアクアリウムバロックロココ期のネイチャーアクアリウムとでも呼べると思う。

2010年代になると従来の水草レイアウトが急速に衰退した。その背景にはDo! AquaをはじめとするADAの低価格帯モデルの登場や、レッドビーシュリンプ人気に伴ってソイルが普及したことによりADAの模倣が容易になったことがあげられるだろう。

すくなくとも1980年代のアクアートに端を発する日本の“ダッチアクアリウムの小型版”といえるような水槽群はほとんど姿を消し水草を扱う=ADA式のネイチャーアクアリウムをやる、という風潮が日本で支配的になった。

2020年代に入って幾つかの動きが出ているが、有名なネイチャーアクアリウム店がダッチアクアリウムの模倣を始めたり(あくまでダッチアクアリウムをイメージした水槽であって、ダッチアクアリウムそのものとは全く違うことに注意)、砂で育てる水槽が再度注目されたりすることが目立つ。これはネイチャーアクアリウムにおける新古典主義てきなものであると考えればしっくりくる。

主にネイチャーアクアリウムの美術史について私なりの思想というか、解釈を述べてみた。あなたはどう思われるだろうか。そしてこの後、ネイチャーアクアリウムは美術史を10倍速で再生し続けるのだろうか。なにかしら有力な対抗馬(テラリウムが現状最もありそうだが・・・)との競争となり奇抜な方面に走り、現代アート風のレイアウトが主流になってくる日も近いのかもしれない。